『いつもニコニコしていて、家事も完璧!非の打ち所がないお姑さん』なんて人がいないでしょうか
これがお嫁さんの場合であれば、お姑さんは楽が出来るしご近所にも鼻が高いのでしょうね
結婚をすると旦那様の家族に『良い嫁』と思われたい人は多いですが、それ以上にお姑さんが『出来る人』だと、頑張らなければと思う気持ちと自分の不甲斐無さを感じ肩身が狭い思いをするものですはないでしょうか
私は夫の両親と二世帯住宅で一緒に暮らしています
同居も5年近くなってくると、『良い嫁』と思われたいけど、無理をするほど良く思われるための努力はしなくなってきました
それでも姑と自分を比べることがあり、姑の主婦として母として『すごい』と思うようなところをみると『自分はダメだな』と感じます
完璧なお姑さんがいると肩身が狭い!?
同居というとお嫁さんやお婿さん、すでに存在している家庭の中に入った人は肩身の狭さやプレッシャー、ストレスを感じるものではないでしょうか
同居の居心地の悪さというものははいろいろなことに感じるものです
私の場合はフルタイムで働いているので家事や子供のことをお願いすることも多く、余計に姑の家族への優しさや子供にたいする対応の仕方など、主婦としても母親としても姑に自分は敵わないと思うことがたくさんあります
夫が家族のために頑張ってくれることや、嫌なことも文句も言わずにしてくれるところなど、姑がそうあるから夫もそう育ったのだろうと感じます
一緒に暮らしている以上、私が不満を感じるように姑も何かしらの不満があるはずですが一切言われたこともありません
(私も言ってないのでお互い様かもしれませんが)
同居をしている身としては、すごく贅沢な悩みなのかもしれませんが、自分のことは棚に上げて嫌味のひとつやふたつ言うお姑さんであれば、自分ができなくても気兼ねなく知らんぷり出来ますよね
そういったことが無いので、自分が出来ていないと申し訳ないと思うし自分がこの家の嫁でよかったのだろうか?と思う時もありました
完璧に見せれる人はいても、完璧な人はいない
『すごい』『素晴らしい』と思われる人はそれなりに努力をしているものですが、すべてにおいて完璧なわけではないですよね
自分のできないことや面倒だなと先送りにしてしまうことをサラリとやってしまう姑に対しすごいと思います
でも、自分のできない箇所と姑の出来る箇所にフォーカスをあてているだけであって、自分のできる箇所と比べてみるとそうでもなかったりします
私の場合は姑と自分を比べてしまっていますが、自分の出来ない部分にフォーカスをあてて自分で自分を追い込んでいる人は多いのではないでしょうか
全くの他人であれば気にならないことも、相手がお姑さんというだけで違った意味に捉えてしまったり必要以上にこだわってしまうのはどうしてでしょうね
同じになる必要はない
人にはそれぞれ良いところも、そうでないところもあり、きっと自分にも義両親に『良い』と思われているところがあるはずです
義両親はすでに定年退職し『老後の生活』に入っているといっても過言ではない年齢になってきています
これまで生きて経験してきたことがあるから、その言動には重みがあり、合理的な考え方や、まわりを想いやり行動として表すことが出来るのかもしれません
毎日の生活に対して感じたり思うことも違うだろうし、全く同じ様に出来なくても当たり前で、せっかく一緒に住んでいるのだから出来ないことはできないでいいし、出来る人が出来ることをすればいいのだと思います
家族がしてくれることに感謝し、その中で自分に出来ることを、家族のために出来ればそれで良いのではないでしょうか
誰かとくらべるのではなく自分を考える
実際のところ嫁の立場として自分のやり方で自分の居場所を作っていけば良いというのは頭では分かっていてもなかなか上手くいかないものです
どーんと構えて落ち着いていられるような気持ちを持てたらと思わずにはいられませんが、自分に出来ないことを悲観したり開き直るのではなく、姑を自分のお手本と思って真似できるところを真似て頑張ればいいとも思っています
理想の人物像というものは、なろうと思ってなるのではなく、理想として努力していれば、まわりがそういう風に見てくれるようになるものだと思います
歳を重ねていくうえで、自分にも人に優しく温かい気持ちにすることができる日がくるかもしれません
ただ、姑と自分を比べるから悲観することもあるので、姑の言動にこだわることなく、自分なりに頑張っていけたらと思います
読んでいただき、ありがとうございます
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